左から 「天照」「不死鳥」「日向」「不死鳥Ⅱ(廃艇)」「日向Ⅱ(廃艇)」
左から 「天照」「不死鳥」「日向」「不死鳥Ⅱ(廃艇)」「日向Ⅱ(廃艇)」

宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)漕艇部 最初の艇 「日向」

 

昭和62年卒 柳田康弘先生寄稿 (整舷6号より)

 

 今では、知らない部員も多いかもしれないが、“日向”とは、我々宮崎医科大学漕艇部が、初めて購入したシェル艇の名前である。命名についてはいろいろ意見が出たが、最後は宮崎のクルーであることを強調したいという理由で、わりと平凡な名前に決まったことを記憶している。

 その待ちに待った“日向”は、昭和59年の3月末に来た。本当に“待ちに待ったシェル艇”である。昭和56年に結成した我々の部は艇を持たず、オール6本のみであった。その間の学生課と交渉はしていたが、いつも答えは同じで“結果をださないことには”。

 そして我々は昭和58年の九山と西医体での結果を引き下げ、当時顧問の木村教授の力添えもあって、ついに“日向”を勝ち取ったのであった。また“日向で漕ぐ”ということは、シェル艇で大会に参加するという“本物の漕艇部への脱皮”を意味していた。もちろん我々はその年の西医体にはシェルフォアでエントリーするつもりでいたし、練習も始まっていた。

 5月上旬のある日、大雨警報が出たため流されないように“日向”を土手の上に移動させた。ところが強風のため、日向は飛ばされ、リガーが3本損傷、垂直フィンごとキールは割れ、船体に穴が開くという大損害を受けてしまった。早速、壊れた船体の写真をデルタ造船(東京)におくるが、修理40万、運送料30万、日数として2ヵ月はかかるとの見積もりであり、学生課も金はないとの返事である。西医体は、絶望的であった。

 “ナックル”で今年も出ようか、という案も出た。しかし今年はどうしてもナックルからシェルへ乗り換える流れを作りたいという意見を貫き、自分たちで艇を修理してみることにした。それから私は、ほとんど授業に出席せず、朝から“日向”の修理場として借りた宮崎水産高校の艇庫(カッター船のおいてある大きな艇庫)へ通い詰めることとなる。木材はデルタから同じものを購入し、建具屋さんからサーフボード製作所まで走り回り、技術から接着剤の選択、グラスファイバーの使い方までおそわり修理した。そして、それは合宿直前に終わった。

 その後の練習は、時間もなく充分とは言えなかったが、クルー全員がよくがんばった。とくに石原君は、腰痛に悩みながらも坐薬を使いつつ練習してくれた。その西医体の我々クルーの結果は満足できるものではなかった(2次予選落ち)が、よくやったと今でも思っている。

 そんな“日向”も、その後何クルーかで活躍した後、廃船となってしまったようだ。しかし私にとっては、本当に愛着のある艇であった。

 ちなみに私はその年の後期試験で、大量の再試を受けることとなるが、それは“日向”のせいではない。ただ、第一外科の再試をたった2人で受けたとき、当時の香川教授から“君は、前期の出席が全然ないけど何をやっていたんだね”といわれ、返答に困ったことを覚えている。